嗜好品を評価することについて

初出:2003/08/23

評価の意味があるとすれば

焼酎の評価を始めるにあたり、相当迷った。

蔵元に失礼にならないか、とか、
杜氏の方々が一生懸命に焼酎を造られている様子を知るにつけ、
躊躇いはより強くなる。

結局、これはあくまで、ただの「自分の好み」の表明であるという、
ごくあたりまえのことを自分に言い聞かせることで、
今は自分を納得させている。

しかし、前提としてその評価の裏側に「愛」が通っていなければ、
このような味覚にまつわる評価は意味がないように思う。

一般的には、評価には突き放した視点が必要とされている。
だが、味覚評価は元来個人的な、いいかげんなものにすぎない。
ひとりよがりにならない客観的姿勢を維持しよう、
と思うことは大事だが、やはり限界はあるだろう。

例えば「甘い」というひとつの言葉にどれだけの意味がこめられるか、
その解釈の膨大さには、いつもたじろがされる。

感じた内容を伝える、ということは、
味覚については、とうてい錯覚だろうと思う。
誰がどのように語彙巧みに表現しても、
味そのものまではきちんと伝わらない。
伝わったとすれば、それはまさにたまたまの幸運な一例でしかない。

そこで、個人の枠内で、ただの備忘録として評価をするのなら、
自分しか見ないノートにでもつけておけばいいのであって、
webに公開する意味など全くない。

こういう個人的見解を公開することに意義があるとすれば、
なんかよくわからんけど旨そうだなあ、とか、
これは一回呑んでみたいなあ、といった、
「ヨロコビ」を伝える、
ということくらいしかできないのではないだろうか。
できるだけ数多くの「ヨロコビ」を見つけることが、
最低限の務めだと思う。
そして「ヨロコビ」を伝えるためには、「愛」は必須だと思う。

だが旨い焼酎ばかりではない

しかし、「愛」は嘘からは生まれてこない。
感じた印象には正直にならなければいけない。
ここで、葛藤が生じる。

だから、実際問題、

 まずい

と、断腸の思いで言わざるを得ない時もある。

追記: 焼酎を呑み始めて10余年、迷いなく「まずい」と断言できる焼酎の数も結構出てきた。ただ、自ら瓶で買ってくる焼酎の中では、そんなにない。そういう焼酎はラベルからいかにも怪しげなオーラが出ているからすぐわかる。

誰かの提灯持ちであってはいけない。
所詮主観にすぎなくても、明らかなバイアスは避けたい。

はじめての銘柄を試す瞬間は緊張のひとくちでもある。
「はずれ」だと思わず笑ってしまう。
もちろん、これは個人的な「はずれ」だ。
一度に開ける瓶は2本まで、と決めているので、
(開封して時間が経てば味や薫りが変わるのだ)
「はずれ」を呑み切るまでは、他の瓶は開けない。

追記: このルールは今も愚直に守っている。

しばらくは、ひたすら「はずれ」を呑む。
一応、「はずれ」でも何度も呑み方を変えて、
ましな呑み方はないものか確認する。

あと、評価には出にくいところで、

 酔い覚めが極めて悪い

焼酎もある。蒸留酒だから大体同じだろうと思うのだが、
自分にとっては、明らかに差がある場合もある。
乙種焼酎の限界に近い44度の焼酎をストレートでガンガン呑んでも、
目覚めが極めて爽やかな場合もあるし、
普通の25度の焼酎をお湯割りで少し呑んだだけで、
次の日の朝が大変辛い場合もある。

追記: 具体的名称を出して大変恐縮なのだが、「宝山 蒸撰白豊」を呑んだ次の朝の寝覚めが悪かったこと、あれから5年経った今でも鮮明に覚えている。個人的には伝説に近い。単に「出逢い」のタイミングの問題だったのだろうか。原因は謎のままだ。

これは生活に影響を及ぼすことなので、
「まずい」より、もしかすると質が悪い。
ただ、これは体質によるものかもしれないから、
普遍的だとは言えないだろう。

しかし、なんだかんだ言っても、
いろいろな銘柄を試すのが愉しいのだ。
マイナーどころで「おおっ」という銘柄に出会う時の喜びは、
ガイドブックや既存の評価に従っていては到底味わえない。
酒屋さんで、おすすめを訊くのも愉しい。
なぜ旨いのか、この旨さをどう表現するか、などと
考えるのもやっぱり愉しい。
こういう作業が苦痛になれば、すぐに評価をやめるだろう。

そんなスタンスで、無責任の中の責任を感じようと思っている。