August 26, 2006
蓮見圭一「水曜の朝、午前三時」
Category : 読書(他人の褌)
児玉清はもともと本をあまり貶さない
若ハゲの同僚が恋愛小説を読んでいるという。
興味が湧いた私は尋ねた。
それ、何ていう小説?
同僚は鞄から本を出して私に差し出した。
「もう読んだから貸します、無期限で」
お、ありがとう。
「児玉清絶賛らしいですよ」
それがこの本なのだが、巻末の解説を読むまで、
数年前に結構売れたということを私は知らなかった。
確かに、一気読みさせる力を持った小説だと思う。
ただ、いわゆる恋愛小説としては読めなかった。
女と男の関係を軸として話は展開するが、主テーマは別にある。
小説の大部分は、45歳で脳腫瘍で亡くなる直前の女性が、
娘に宛ててテープレコーダーに吹き込んだモノローグから成る。
主な舞台は1970年の大阪万博。この時の主人公の年齢は20代前半。
自信家で英語が堪能な主人公が、親の反対を押し切って、
万博にコンパニオンとして参加することを決意するところから物語は始まる。
有能な同僚の中でも、特に異常な才気を放っていた男性が「臼井さん」であり、
誇り高きプライドを持つもの同士、紆余曲折を経て恋に落ちる。
しかし、謎めいた行動の多い「臼井さん」の素性が露になることで、
事態は急転する。
話の展開が刺激に満ち満ちているわけではない。
粗筋だけを辿ればむしろよくある話である。
また、読んでいて違和感を感じることも度々あった。
例えば、これは70年代という時代を反映している分仕方がないが、
「親が決めた許嫁と結ばれる」とか、物語のキーとなる「ある差別」とか、
女性側の結婚観から古臭い香りがぷんぷんして、
むずがゆいような、照れ臭いような感覚で腰のあたりが落ち着かない。
恋愛ほど時代を反映する題材はない。
出来立ては新しいが、古くなるのも早い。
でも児玉清は正しい
しかし、少々の瑕疵なんか構わず読ませる。
もっとこの物語を読み続けたいと願う。
何故か。一つは主人公の魅力、にあると思う。多面体の魅力である。
主人公は外から見ると才女であり、自信家であり、寸鉄穿つ毒舌も吐けば、
酒呑みの豪放さを持ち合わせていたりするのだが、
今際の際で語る過去の自分は内省的で、兆しを拡大解釈する臆病さがあり、
自信家としてのイメージを壊すまいと入念に鏡で表情のチェックをする。
様々な人格要素が、自分語りの他、友人や娘や義理の息子の台詞を借りて語られる。
キャラが固まってないなあ、と読んでいる途中は思ったが、
いやいやそんなことはない、人間描写としては当然こちらが自然である。
様々な人間らしき様相を持ち合わせつつ、小説の主人公として
破綻なくきちんと焦点を結んだ像が描けるのは見事だと思う。
そして主人公は孤独である。
友人もいる。かしましいおしゃべりもする。だが孤独だ。
他力に頼らずに自分たらんとする姿勢に私は最も惹き付けられた。
以下は、共産党党員である喫茶店のマスターと主人公の会話である。
「疎外」という言葉はマルクスの造語だと、マスターは語る。
「私はムーミンというマンガが好きで、日曜日に子供と一緒によく観るんです。ムーミン谷の外れに川が流れとって、その川べりでいつもギターを弾いている男がおるでしょう」
「スナフキンですね」
「そう、スナフキン。彼はみんなから好かれとるし、一目も二目も置かれとるけど、ムーミンたちと食事をしたり、一緒にどこかへ出かけたりすることはない。なんでか分かります?」
「分かるような気もしますけれど、私はスナフキンが疎外されているとは思いません」
「それやったら孤独の話をしましょうか。孤独というのは、私に言わせれば情緒上の贅沢なんです。スナフキンはそんな贅沢な男やない。彼は孤独に慣れとるけど、別にそれを楽しんどるわけやない。私はあの男、革命家なんやと思う」
引用元:本書131Pより
確かに、静かに群れを拒むスナフキンは革命家なのかもしれない。
しかしその革命はたった一人で行われる、たった一人のための革命である。
モノローグの最後に語られるあの感動的な台詞は、
つまりは、革命家であれ、という警句かもしれない。そう思った。
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