March 12, 2007

「去年の桜」 

Category : 読書(他人の褌)

ネットの文章で、泣いたり、笑ったりということは数多くあるが、
鳥肌が立った経験は久しくなかった。

この、「去年の桜」という文章である。

その奔流のような文章に呑まれた。
最後には、車窓からの桜咲き乱れる光景が確かに見えた。

死を身近に感じ、這いつくばりながら
世界の中の自分の立ち位置を必死で模索し続け、
そして絶望に近い地平の果て、得ることのできた肯定には、
普通では持ち得ない大きな力が宿っている。

去年の春、坂本龍馬の墓から見下ろした桜を、今年も見にいくことができる。これ以上の幸福があるだろうか。死ななくて良かった、生き延びてこれてよかった。

煌めく宝石が既に手の届く範囲にあるらしいことは、
なんとなく感じることができる。
しかし、私にはその反射する光の、
ほんの僅かな断片しか見えていないようだ。

私も桜咲く頃、坂本龍馬の墓に参り、
同じ風景を見ようと思う。

もうすぐ満開の桜を見ることができる。

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August 26, 2006

蓮見圭一「水曜の朝、午前三時」 

Category : 読書(他人の褌)

児玉清はもともと本をあまり貶さない

若ハゲの同僚が恋愛小説を読んでいるという。
興味が湧いた私は尋ねた。
それ、何ていう小説?
同僚は鞄から本を出して私に差し出した。
「もう読んだから貸します、無期限で」
お、ありがとう。
「児玉清絶賛らしいですよ」

それがこの本なのだが、巻末の解説を読むまで、
数年前に結構売れたということを私は知らなかった。
確かに、一気読みさせる力を持った小説だと思う。
ただ、いわゆる恋愛小説としては読めなかった。
女と男の関係を軸として話は展開するが、主テーマは別にある。

小説の大部分は、45歳で脳腫瘍で亡くなる直前の女性が、
娘に宛ててテープレコーダーに吹き込んだモノローグから成る。
主な舞台は1970年の大阪万博。この時の主人公の年齢は20代前半。
自信家で英語が堪能な主人公が、親の反対を押し切って、
万博にコンパニオンとして参加することを決意するところから物語は始まる。
有能な同僚の中でも、特に異常な才気を放っていた男性が「臼井さん」であり、
誇り高きプライドを持つもの同士、紆余曲折を経て恋に落ちる。
しかし、謎めいた行動の多い「臼井さん」の素性が露になることで、
事態は急転する。

話の展開が刺激に満ち満ちているわけではない。
粗筋だけを辿ればむしろよくある話である。
また、読んでいて違和感を感じることも度々あった。
例えば、これは70年代という時代を反映している分仕方がないが、
「親が決めた許嫁と結ばれる」とか、物語のキーとなる「ある差別」とか、
女性側の結婚観から古臭い香りがぷんぷんして、
むずがゆいような、照れ臭いような感覚で腰のあたりが落ち着かない。
恋愛ほど時代を反映する題材はない。
出来立ては新しいが、古くなるのも早い。

でも児玉清は正しい

しかし、少々の瑕疵なんか構わず読ませる。
もっとこの物語を読み続けたいと願う。
何故か。一つは主人公の魅力、にあると思う。多面体の魅力である。

主人公は外から見ると才女であり、自信家であり、寸鉄穿つ毒舌も吐けば、
酒呑みの豪放さを持ち合わせていたりするのだが、
今際の際で語る過去の自分は内省的で、兆しを拡大解釈する臆病さがあり、
自信家としてのイメージを壊すまいと入念に鏡で表情のチェックをする。
様々な人格要素が、自分語りの他、友人や娘や義理の息子の台詞を借りて語られる。

キャラが固まってないなあ、と読んでいる途中は思ったが、
いやいやそんなことはない、人間描写としては当然こちらが自然である。
様々な人間らしき様相を持ち合わせつつ、小説の主人公として
破綻なくきちんと焦点を結んだ像が描けるのは見事だと思う。

そして主人公は孤独である。
友人もいる。かしましいおしゃべりもする。だが孤独だ。
他力に頼らずに自分たらんとする姿勢に私は最も惹き付けられた。

以下は、共産党党員である喫茶店のマスターと主人公の会話である。
「疎外」という言葉はマルクスの造語だと、マスターは語る。

「私はムーミンというマンガが好きで、日曜日に子供と一緒によく観るんです。ムーミン谷の外れに川が流れとって、その川べりでいつもギターを弾いている男がおるでしょう」
「スナフキンですね」
「そう、スナフキン。彼はみんなから好かれとるし、一目も二目も置かれとるけど、ムーミンたちと食事をしたり、一緒にどこかへ出かけたりすることはない。なんでか分かります?」
「分かるような気もしますけれど、私はスナフキンが疎外されているとは思いません」
「それやったら孤独の話をしましょうか。孤独というのは、私に言わせれば情緒上の贅沢なんです。スナフキンはそんな贅沢な男やない。彼は孤独に慣れとるけど、別にそれを楽しんどるわけやない。私はあの男、革命家なんやと思う」

引用元:本書131Pより

水曜の朝、午前3時

確かに、静かに群れを拒むスナフキンは革命家なのかもしれない。
しかしその革命はたった一人で行われる、たった一人のための革命である。
モノローグの最後に語られるあの感動的な台詞は、
つまりは、革命家であれ、という警句かもしれない。そう思った。

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August 17, 2006

筒井康隆「愛のひだりがわ」 

Category : 読書(他人の褌)

筒井作品の再評価は必然

筒井康隆は私と同年代の人々にとって、特別な存在である。

筒井氏が丁度脂の乗った作品を連発していた頃に
多感な時期を迎えた当時の青少年は、
これらを読んでしっかりと、
「マスコミ不信」「前衛の価値」「エスタブリッシュメントの危険性」等々の
価値基準を植え付けられることになる。

現在の筒井作品の映像化連発現象は、そんな、当時影響を受けた人たちが
気鋭の若手クリエーターとなったことが理由のひとつ。
業の深い時限爆弾が連鎖しながら爆発しているのだ。

私は筒井氏の文庫化された作品のうち、95%は読んでいるはずだ。
20年以上、読み続けていることになる。本作は最近文庫化された作品。

ジュブナイルと銘打たれているが、
それだけで少年少女向けだと判断してしまっては勿体ない。
歴とした大人のファンタジー小説である。

基本は水戸黄門だが、しかし

舞台は近未来の日本。モラルの荒廃が進み、
街には日常茶飯のように死体が溢れ、もはや警察は役に立たず、
民間の自警団が街への侵入者に目を光らせている。
主人公は左手の不自由な小学生の少女である。
その少女の名前を「月岡愛」という。

題名の意味はつまりそういうことである。
その「ひだりがわ」に立つのは、時には爺さんであり、
同級生の少年であり、おおきな犬であったりするのだが、
彼らは主人公の庇護者として立ち現れる。

主人公は幼い頃に家を出た父親を探すために故郷を旅立つ。
無法国家となった日本を、少女が一人で徒歩の旅をするわけで、
当然その過程で事件が度々起こる。
そしてその時々で、かわるがわる、主人公のひだりがわには誰かが立っている。
そう。そこからの読者の予測は最後までほぼ外れることはない。
エンディング近く、それまでに受けた抑圧を吐き出すかのように、
主人公たちが「敵」を討ち取っていくプロセスは、期待通りきっちりと痛快である。

しかし、主人公は最後に至るまでの過程で、2つのものを失う。
それらは成長と共に、我々が失ってきたものでもある。
喪失感は爽快さと混ざり、複雑な読後感となって残る。
(「魔女の宅急便」と似てる、という人はいるだろうけど)

筒井氏の小説では、主人公が女性の場合はだいたいが美人として描かれる。
本作も例に漏れない。「美少女」である。そして芯が強い。
確かに、美人の方が、主人公へのインタラクションを描きやすいだろうし、
読者も感情移入しやすいのだろうが、作者の好悪も多分に反映していると邪推する。
また、筒井作品ではおなじみの、犬への偏愛が随所で読み取れるのも、
本作の微笑ましいところ。

愛のひだりがわ

ちなみに個人的な筒井作品のお薦めは、
「ヨッパ谷への降下(短編)」「夢の木坂分岐点」
「おれの血は他人の血(絶版?)」「大いなる助走」・・等。
特に最初の2つは、いわく表現し難い余韻が残る傑作。

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